人との交流1
2025年7月27日
皆様、こんにちは
皆様、揖保乃糸はご存知でしょうか。
だいぶ昔からテレビCMなどで流れているのでほとんどの方は知っていると思いますし、食べたことがある方も沢山いると思いますが、私は今まで食べたことがありませんでした。
夏はそうめんや蕎麦を沢山食べるのですが、揖保乃糸は高くて量も少ないので、質より量派の自分とってあまり興味は無かったのですが、たまたま母が揖保乃糸を買ってきたので食べてみたら、凄かったですね。
何か、あれはそうめんではない何か別の麺類なんじゃないかというくらいのコシと食べやすさで、SNSでどれだけそうめんに飽きても、揖保乃糸だけは食べられるという投稿があったのが分かるくらいの美味しさでした。
何も食べる気が起きないけど、お腹は空いているみたいな状況では、最適な食べ物だと思いますね。
さて、今回は人との交流について書いていきたいと思います。
それでは始めます。

前回、前々回は人との縁ということで、どんな人が自分に合っているのかだったり、仲を深めようとなったきっかけや、気の合う人合わない人と交流していくとどんな事があるのかを書いていきました。
そして今回は、気の合う人との関係維持はどうしているのか、逆に合わない人と付き合っていかなければいけない場合はどうしているのか、また店員さんなど交流とは言わない程度の他人への対応はどうしているのか、私個人の見解を述べていきます。

最初に気の合う人との関係維持ですが、実は意識していることはあまり無く、強いて言えば相手の雰囲気に合わせた言動をしているということでしょうか。
小さい頃から母の目を気にして母に合わせた生活をしていたので、小学生の頃はその反動なのか、周りの事はあまり考えずに振り回す事が多かったですが、精神的に少し成熟した現在は特に考えずとも相手に合わせた言動を無意識に行えているんだと思います。
相手に合わせるのは疲れるとはよくいいますけけど、気の合う人の場合は素も自然と出せますし、合わせるのも意識は特にせず無意識レベルなので気疲れというのもあまりありません。

逆に気の合わない人とはどうでしょうか。
私の場合は、関わる時間を最小限に抑えて、出来るだけ早く去るというのが大前提としてあります。
それでも長時間一緒にいなければいけない場合は、気配を少しでも消して空気になるようにして、コミュニケーションを取る時は必要以上の会話はせず、どれだけ失礼な事を言われようとも怒ったりなどは一切せずに、一定の壁を作りながら愛想良く接して、その場を切り抜けています。
こちらのパターンは勿論疲れますが、私は人に注意して正してもらうよりも、一旦全てを我慢して、静かに諦めてその人から離れるタイプなのでこういう対応になります。
失礼だったりマナーが悪い人がいた時に注意出来る人を見かける度に強いなとよく思いますね。
人に注意出来るというのも優しさなので、ちゃんと正しい注意が出来る人は、本当に優しいんだなと思います。

最後に店員さんなど、ほぼ2度と関わることは無い人との接し方は、柔らかい口調、敬語で基本愛想は良くします。良くしない理由も特にないですからね。
当たりが強い店員さんもいますが、そういう店員さんにも上記の接し方をしていると、何故か相手も少し雰囲気が柔らかくなったりするので、基本愛想は良くした方が得しますね。
今までの環境から我慢に慣れてしまっているので、どれだけ不愉快で相手に非があっても怒ったり叱ったりというのは全くせず、自分が一旦諦めて我慢しておけば丸く収まりやすいので、合わない人や他人には愛想良くするのが自分にとって楽で当たり前となっています。

今回はここまでにしようと思います。
いかがでしたでしょうか。
人によっては生きづらそうや情けないなど、思われるかもしれませんが、私はこのスタンスで過ごしてきて問題が起こったことはほぼ無いので、これからも変わることは無さそうです。
ちなみにゆかり先生によると、私のこういう生き方は「賢い適応術」「エネルギー消費最小限で済む順応性」だそうです。
次回も人との交流です。
それでは、次回もお付き合い下さい。